小母さん日記 Poem by Shuntaro Tanikawa

小母さん日記

小母さんが土手の上にしゃがんでいるのが見える。うしろで大きな煙突が煙を吐いている。小母さんにああしろとは言えない、こうしろとも言えない。小母さんは小母さんだ。今夜はこんにゃくを煮るそうだ。

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いま言ったことをすぐに忘れて、小母さんは同じ話をくり返す。いま怒ったかと思うと次の瞬間には上機嫌だ。昔あんなに上手にたいた御飯をまっ黒こげにする。だが平気だ、こがしたこともすぐに忘れてしまうから。もったいないねえこんなにこがしてしまってと、小母さんはけろりとひとのせいにする。変幻自在のいまの小母さんの中で、昔の律儀な小母さんがかくれんぼをしている。小母さんはどこかへ行ってしまったのか。いや小母さんはそこにいる、まだ。きれいな白髪を陽に輝かせて、生きている。

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あらだめよと小母さんは言ったんだそうだ。割烹着が折釘にひっかかって、ぴりっと裂けたそうだ。そしたら男はあっさり手をひっこめた。へまな男さと小母さんは怒る。三十何年前の話だが小鼻をふくらませて小母さんはしばらくの間本気で怒っている。

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ぼくに見えている小母さんだけが小母さんではないのはもちろんだ。小母さんはヴィールスのようにぼくを侵食する。見えない小母さんは見えている小母さんより危険だ、ぼく自身と区別がつかなくなってくるから。見えない小母さんを見ようとしてぼくは小母さんを書くことを試みる。免疫? そんな言葉が役に立つものか。

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口が欠けてしまって茶渋のしみついた土瓶を小母さんは大切にしている。その土瓶から茶碗に番茶を注ぐとき、小母さんはいちばん堂々としている。それからやおら新聞を目で追い始めるのだが、捨子とクーデタの見出しが同じ大きさの活字で組んであるので、そのふたつのできごとの間に軽重はないということが小母さんにはよくわかる。老眼鏡はみっつ失くしていまよっつめだ。

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明らかに名ざすことのできるものは、この世にはひとつもない。鍋が鍋ではない何か別のものの寄せ集めなのと同じように、かなしみはかなしみではない数えきれぬほどのおそろしくしんどいもののなれのはてだ。ひとつの名はまるでブラック・ホールのように他のすべての名を吸いこもうとする。名はその根を無名におろしている。(とりあえずこう書きつけておく)

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もっといい世の中になるよと小母さんは言う。でも世の中ってこうしたもんさと小母さんは言う。夕方、壁のほうをむいて小母さんが泣いているのを見たことがある。ぼくには小母さんを見守ってゆくことのほか何もできない。ぼくはおそろしいくらい無力だ。そのせいでぼくにはときどき小母さんがくらべるもののないほど美しく見える。

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この世には詩しかないというおそろしいことにぼくは気づいた。この世のありとあらゆることはすべて詩だ、言葉というものが生まれた瞬間からそれは動かすことのできぬ事実だった。詩から逃れようとしてみんなどんなにじたばたしたことか。だがそれは無理な相談だった。なんて残酷な話だろう。

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おなかがすくと小母さんは鍋の中のものを手でつまんで口へほうりこむ。三日つづけて風呂へ入るかと思うと、一月も入らないことがある。ぼろぼろになった半衿を誰かが盗んだと言って騒ぎだす。そのくせふとんの下にかくした株券のことはすっかり忘れている。小母さんがばらばらにこわれてゆく。だがその中にまたもうひとりの小母さんがいる。まるで子どものころに買ってもらった寄木細工の箱のようだ。箱の中に箱があり、その箱をあけるとまた箱があり、その箱の中にもっと小さな箱が入っている……かくしていたものを小母さんは次々とあらわにしてゆくが、箱とちがって小母さんはからっぽになることはない。どれがほんとうの小母さんかと問うのは愚かなことだ、矛盾と混乱こそが小母さんそのものだ。だが正直すぎるそんな小母さんが、ぼくはときどきひどく憎らしい。あばかれるのはぼく自身だから。

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いつお迎えが来たっていいよと小母さんは言う。でもお迎えが来るまでは死ねないよと小母さんは言う。自分の世話ができないので小母さんは余計にひとの世話を焼きたがる。私のことなんかほっておおきよと小母さんは言う。そんな自尊心のようなものはもう要らないと言うことはぼくにはできない。ぼくは小母さんの前にいることでやっとぼくになっているのだから。

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この世は一枚のクレージー・キルトだ。さまざまな色と布地が狂ったようにつぎはぎされて、そのくせ四辺は見事に断ち落とされている。百年前の北アメリカにも小母さんによく似た小母さんがいただろう。大きな河のそばに、ぶなの木蔭に、都市のはずれのあばらやのポーチに。

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ぼくもいつか小母さんになるだろう。それとももうぼくも小母さんなのか。ぼくの名前、ぼくの金、ぼくの未来、ぼくの何か、そんなものがぼくと小母さんをへだててくれるはずはない。ぼくの手、ぼくの髪、ぼくの言葉、ぼくのうつろう意識、ぼくのと呼ぶことのできるものはすべて、小母さんのものと瓜ふたつだ。

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犬の腹を撫でながら、小母さんは小声で犬に話しかけている。犬の喜ぶのが小母さんは嬉しくてたまらない。小母さんが永久に犬を撫でつづけるのではないかと思って、ぼくはその情景から目が離せなくなる。だがやがて小母さんはゆっくり立ち上り、家の中へ入ってゆく。ぼくに残されたものは、息のつまりそうなひとつの感情、それに名前をつけることがぼくにはどうしてもできない。

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Shuntaro Tanikawa

Shuntaro Tanikawa

Tokyo City, Japan
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